郷土探訪

春日井の地質 地史と地下資源

大橋博  第4代春日井自然友の会会長  名古屋地学会会員

地質の違いは、そのまま地形によく表われている。本市東部の標高300メートルから400メートルの山地(尾張丘陵)は、中・古生代の砂岩、頁(けつ)岩、チャートからなる。その西側の標高100メートルから200メートルの丘陵(高蔵寺ニュータウンから西尾町、坂下町付近)一帯は鮮新世の礫(れき)、砂、粘土の層が分布している。そして、標高100メートル以下の大泉寺町以西の市域のほとんどは、洪積世の段丘面であり、砂、礫の互層である。

本市の地下資源といっても、現在採取されているものはほとんどなく、砕石程度である。しかし、亜炭、マンガン鉱、軟硅石、粘土、磨砂などが盛んに採掘されていた時代もあった。それらの資源が生成された様子と稼行(かこう)の状況を、地史と合わせて記す。

結晶質石灰岩の露頭

〈海底の時代〉
今からおよそ2億数千万年前(古生代末から中生代初)日本列島のほとんどは、静かな暖かい海であった。その当時の海底に堆積した砂、泥が現在内津町、外之原町で盛んに砕石として採取されている砂岩、頁岩、チャートなどである。この地層中に結晶質石灰岩(大理石)が挟(はさ)まれているところがある。また、外之原町では礫岩の存在も確認されている。

マンガン鉱床

今から7千数百万年前、この地域では地下よりマグマの貫入があり、黒雲母花崗岩ができた。廻間町の築水池付近に産出する。また、内津町で閃(せん)緑岩を確認しているが、その産状ははっきりしない。このマグマの貫入により、前記の古生層は熱変成を受けており、軟硅石化している部分が各所に見られる。また、マンガン鉱床も各所に生成された。軟硅石は玉野町、高蔵寺町などで採掘、粉砕されて、耐火レンガ、耐火モルタル、セメントなどの原料として出荷されていた。また、マンガン鉱(酸化マンガン鉱)も西尾町で昭和17年から昭和27年頃まで採掘されていた。品位は二酸化マンガン70パーセント前後で、年間60トン程度の産出であった。
今から1400万年前(新生代、第3紀、中新世)にも海が入り込み(第1瀬戸内期)右図のような状態になったと考えられている。このことは岐阜県の瑞浪市付近で多く産する海棲動物の化石によって広く知られている。本市のあたりは当然海底であったであろう。

第1瀬戸内期

地図

〈東海湖の時代〉
今から500万年ほど前から200万年ほど前までは、このあたりは大きな湖であった。
この湖は「東海湖」と名づけられている。現在の伊勢湾の太平洋側がとざされたような状態の湖である。南は知多半島、東は豊田市、岡崎市、北は春日井市、小牧市、西は鈴鹿山脈の東麓にいたる地域である。この湖のまわりの陸地から泥、砂、礫が流入し、湖底にそれらを堆積した。この湖に堆積した地層をこの地域では「瀬戸層群」とよんでいる。この瀬戸層群の下部を「瀬戸陶土層」といい、上部を「矢田川累層」としている。本市付近では、矢田川累層の「尾張夾炭層」といわれる部分が分布している。この地層は高蔵寺ニュータウン一帯から坂下町にかけては地表に露出しているが、本市全域にわたって地下に分布している。この地層は主に礫岩と砂岩、粘土層の互層で、亜炭層、火山灰層を挟む。
亜炭は当時の陸地に繁っていたメタセコイア、フウ、シマモミ、イヌカラマツ、ヌマミスギ、カリヤクルミといった木々が洪水などによって流されてきて湖底に沈んで堆積したのであろう。亜炭は石炭ほど炭化されていない埋木であり、この地方では、「井屑(いくず)」「岩木(いわき)」「川木(かわき)」などと呼ばれて、古くから燃料として利用されていた。
これらの亜炭層は場所により層の厚さ、層の数に変化がある。多いところでは10枚もの層がみられる。矢田川累層全体が南西に2から3度の傾斜をしているので、東部の丘陵地では地表近くでも炭層が見られる。大留町付近では地表から12メートルほどのところに95センチメートル亜炭層がある。鳥居松町1丁目付近(標高21メートル)では地下30メートル付近と、152メートル、184メートル付近に埋木が確認されている。(ボーリング資料)
亜炭鉱として稼行されていたのは、高蔵寺町、松本町、大泉寺町、出川町、東山町で、最盛期の昭和23年ごろには、月産5,500トンも産出し、燃料として利用されていたが、昭和38年頃にはほとんどの鉱山が閉山された。
小牧市の大草町でも亜炭が採掘されていたが、同じ尾張夾炭層のものである。ところが岐阜県の瑞浪市や可児郡の御嵩町で産出されていた亜炭は、東海湖時代より古い時代に(1,600万年前)それらの地域が湖であった当時に堆積したものである。
大泉寺町、東山町の潮見坂平和公園付近の地下に火山灰層がみられる。これは白色の磨砂質であり、直径1センチメートルから3センチメートルの軽石を多く含む部分がある。なかには、25センチメートルもの亜円礫がある。層の厚さも場所により異なり、2メートル〜4メートルで粘土層に移行することが多い。東海湖時代に、どこかに火山活動があり多くの火山灰、軽石を噴出し、それらが流されてきて堆積したのであろう。
この磨砂も古くから米つき用、洗剤用として採掘、出荷されていた。最盛期の昭和28年頃で年間1,500トン程度産出されていた。
明知町では蛙目(がえろめ)粘土の採掘がおこなわれていた。地表から12メートルから17メートルのところに粘土層があり、露天掘で昭和53年まで採取されていた。この粘土は花崗岩が風化して流されてきて堆積したものと思われる。石英の粒を多く含むので、水洗いで粘土と石英粒を選別して出荷していた。

火山灰層

地図

〈氷河の時代〉
今から200万年前から1万年前までを洪積世、1万年以降を沖積世という。
洪積世の時代は氷河期と間氷期が繰り返され、海水面の低下(海退)と海水面の上昇(海進)が繰り返された。特に濃尾平野の地域では、東部が上昇し、西部が沈降するという傾動運動が進んでいった時代である。そのためこの地域では、水面がいっそう低下し、東北部より多量の砂礫の供給を受けることとなった。現在の出川町以西の地域に分布する段丘の砂礫は、古庄内川、古木曽川によって運ばれてきたものであろう。現在の河川は堤防によって流路が決められているが、当時の河川は堤防もなく、流路を自由に変え、広大な氾濫原をもって流れていたことであろう。
今から10万年ほど前の間氷期に海水面が上昇し、この付近まで海進があった。現在の田楽町の付近に分布する砂礫が堆積した時代である。この地層を田楽層(名古屋市の熱田層に相当する)といっている。名古屋市の中心街をのせている標高10メートルから20メートルの平坦な台地の部分はこの層に相当すると考えられている。この砂層中に軽石の円礫(0.5ミリメートルから1センチメートル)が含まれている。この軽石は御岳火山(約3万5千年前)のものと考えられている。
氷期が深まり海退が進むと河床面が低下する。それが繰り返され小牧面(浅山町、六軒屋町、牛山町の面)、鳥居松面(篠木町、鳥居松町、柏井町、勝川町の面)春日井面(王子町、上条町の面)が形成されていった。
氷河最盛期には、海水面が現在より100メートルから140メートルも低下したといわれている。
その後約1万年前より後氷期に入り、海面の上昇が始まった。今から約6000年前、海水面が現在より5メートル上昇した時期がある。これを「縄文海進」といっている。その後海退が進み現在の地形となった。

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